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「元関取が語る!土俵で学んだ歩き方Vol.06」最強の履き物

 相撲術の動きとは、古の日本人の体の使い方を認識することも大いに含まれている。その動きは下半身を中心としているのだが、現代の生活様式ではなかなかそれができない。皮肉なもので、よかれと思って追求してきた便利さは、代償として身体感覚が鈍らせてしまった。それに対処するために、今回は「最強の履き物」を紹介したいと思う。あくまで私個人の意見であるが、それは「下駄」である。

 現代社会において下駄を履く人などまず見かけなくなっており、大相撲の世界においては、入門してから序二段までは下駄及び安い草履を履くことが決められている。しかし最近では、相撲部屋の千秋楽パーティーなどがホテルで行われる場合、下駄だと床に傷つけてしまうため敬遠され、ますます下駄を履く機会は少なくなっているのだ。

 皆さんの下駄に対するイメージはどうだろうか?私の場合は小さい時分には、まだ下駄を履く人が周りにも若干名いたので違和感はなかった。しいて言うなら古風な感じだろうか?そして時を経て徐々に履きにくいもの、履きたくないものというイメージを持った。しかも値段もそれなりにし、まずもって購入しようなどと思わない。大多数の人がそう思ってはいないだろうか?ではなぜ、そんな下駄がかつては当たり前のように履かれていたのか?数が少なくなったとはいえ今なお存在しているのか?私の体験談を交えて解説していきたい。

 ある時期私は足首を痛めてしまう、相撲術主宰という立場上体を鍛えることを日課としていて、朝の歩きは欠かせない。歩いて足腰を鍛え、目を覚まし、インスピレーションを養う。しかし、その習慣が一つできなくなるというのは、かなりのストレスとなり、仕事に支障をきたす。経過をみて痛みが軽減してきたところで、軽く歩き始めるとこれまたぶり返す。そんな時にたまたま知人に下駄をいただく、もしかしら下駄で歩いてみたらよくなるかも、いや悪くなるかも、どちらに転ぶかわからないが、試す価値はある。一縷の望みにかけて、下駄で歩きに出掛けてみた。やたら目線が高い、底部分の歯が引っ掛かって転びそうで怖い。念の為いつもより短い時間で切り上げ、足首の様子を見ることにした。直後ではそれはわからない、時間はかかるが一番はっきりとわかるのは、翌日の朝つまり寝起きの時だ。痛みがある時というのはガチガチに硬くなっている。しかし私の心配は取り越し苦労であった。信じられないことに、痛みや硬さが減ってきていた。嬉しいことではあるが、普通のスニーカーより履きづらい下駄を履いたことで、なぜ足首の痛みが軽減したのか、疑問に思うことのほうが勝った。謎めいてはいるものの、確実に怪我の経過が良くなったことと、その理由を探るべく、翌日からは下駄で歩きに出かける。

 まずわかったことは、普通の靴に比べて地面への足の設置面積が明らかに狭いということである。下駄の歯は2本だけであるので、接地が少ない分足への負担が減る。そして、二本歯で歩くということで体全体を使って歩ことが、無意識にバランスをしっかり取っているのだ。平坦で舗装された道路を履き慣れた靴で歩くというのは、ほぼ足を動かすだけで無難にこなせる。これは安全のようであるが、注意力が散漫になり、さらなる危険性を伴う。最近のわかりやすい事例で言えばやはりスマホであろうか?あとイヤフォンで音楽を聴きながらというのも危ない。下駄を履いてこれらの行為は当然できない、これが不便であるか否かは人それぞれの判断であるが、注意散漫になって自己の体に無頓着になることが習慣化すれば、後々大怪我につながる。例えば周りの人や、物とぶつかり、咄嗟の反応が行えず大事故につながったり、姿勢の乱れが長年の蓄積により修正不可能に近いくらいになったりするだろう。

 下駄を履くことで、その瞬間から体に程よい緊張感が生まれる。我々人間の祖先は太古の昔からの遺伝子的に常に身の危険を守るために、体に緊張感を持って行動してきた。それが幸か不幸か平和になったことで、人間本来の習性が使われなくなり、心身のラグが起こり不調をきたしているのだ。下駄により、我々人間の元々の感覚が蘇ることができるようになり、お腹を中心として全身にくまなく集中力が宿る。実はそれこそが一番心地よい状態なのだ。

 さて、下駄にまつわる言葉として「下駄を預ける」というのがある。これは、あることをすべて相手に預けるという意味である。相手を信頼して一任する、ニュアンス的に大切なもの(精神)を預けるということだろう。下駄が、我々にとって大切な存在であるということが本能的に捉えられていたのではないか。そして絵図にも残されていて、空想上の「天狗」も、下駄を履いている。しかも一本足のをである。武術の達人が履いてるので、強さの象徴の一つとしても捉えることができるのではないだろうか?他にも牛若丸や、武蔵坊弁慶など有名な武士が履いている。

 ある日昔の映画を観たのだが、驚愕してしまった。ある程度誇張してるかもしれないが、なんと下駄を履いて一山を越えるというシーンがあったのだ。本格的な登山ではないにしろ下駄で登れるのかと疑問に思い、実体験してみることにした。低い山ではあるが、300の石段をスタートに山頂を目指して登っていく。スニーカーではきつい石段が割と軽く感じる、これは足の疲れよりも、転ばないようにバランスを取る方に意識が入っているからなのだろうか?体全体をバランスよく使っていて心地がよい。まだ肌寒い時期ではあったものの汗もかいた。足元に気をつけながらなので普段より時間はかかったが、長かった感じはせず、時計を見て初めて時間経過していることにいることに気付いた。それはつまりは心地よい証拠、痛めてる足首など気にならず気持ちよい登山であった、何より他の登山者から、とても驚かれ、羨望の眼差しがあった(ような気がする)。ともかく、下駄で山を登るなんて信じられないという印象はあっただろう。私自身、下駄で山を登るなど失礼にあたるのでは思っていた。しかし、今となってはまた登りたくなっていて、下駄でなければいやだと体が言ってきている。

 翌日の足首は完治に近い程に痛みが消えていた、大相撲時代の体の負担で、古傷のような痛みがあちこちにあるが、それらが緩和されている。なんて万能な履き物なのだろうか、お相撲さんの新弟子が下駄を履くという伝統は、最初は履きにくさによる修行・試練という意味合いかと思っていた。だが、私の今の解釈は違ってきていて、一般人から相撲の世界に身を投じるにあたり、少しでも体の使い方が良くなるように導いてくれるためのものであり、三段目という番付に上がるまで、力士を見守ってくれている存在のような気がする。

 古き良きものは、只者ではない。下駄の形状にはやはり意味があるということなのだ、それが今の生活様式には合わない(車に乗ったりとか)という理由で敬遠するのはなんだかもったいない気がする。便利な世は、身体感覚を鈍らせていくような気がしてならず、有り難いとは思いつつも不安で仕方ない。できる限り、私は下駄を履いて歩いていきたいと思っている。そしてさぁ出掛けようと履いた瞬間、片方の歯が2本とも取れてしまい、やがて台が真っ二つに割れた。何か不吉な予兆だろうか?残念ではあるが、あらためて新品を購入しようと思う。どうせなら一本足のでも買おうか?それを使いこなした時、体全体がどう変わるのか楽しみで仕方ない。

※イラスト=上林氏による直筆

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【上林義之】
元力士大岩戸、本名上林義之。OfficeOōiwato(オフィスオオイワト)代表。現AbemaTV相撲解説者。相撲の運動を活かして介護施設や保育園・幼稚園で相撲レクリエーションを行っています。その他、講演活動やヘルスケアイベントでの講師なども。お問い合わせは当ホームページよりご連絡ください。

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