
一旦相撲術から離れた話をしてみたい、ま、これも相撲術の中の真髄の一つと捉えてはいるが、今回は「挨拶」について触れてみたいと思う。
我々日本人は、幼き頃から挨拶はきちんとすることを教わってきた。日々の生活の中で当たり前にように行われている、ありふれたものである。それだけでなく、仕事などの大切な場面でも欠かすことのできない、人と人とが繋がる手段の一つでもある。誰もが当然のようにできそうなこの「挨拶」であるが、残念ながら最近ではできない、やらない人が増えてきて軽視されてきている。わかっちゃいるけどできない、やりたくない、それはまるで「あいさつ」と書けても、漢字で「挨拶」とすぐに書けないようなもどかしさをはらんでいるように感じられる。何を隠そうこの私も、相撲を始めた10歳くらいまでは挨拶ができず、むしろやらされることに嫌悪感すら抱いていたくらいである。幸い礼節を重んじる相撲の世界に身を投じたということで、その辺の部分は厳しくご指導いただき、いっぱしに挨拶ができるようになった(と思ってはいるが)。これは後々の我が人生に大いに役に立ったいて、相撲をやっていなかったら一体どうなっていただろうと感じざるを得ない。私が相撲に敬意を払う理由の一つがこれであり、「挨拶」を学ぶことで人間力を磨かせていただいた。

さて、街を歩いていて、ごく稀に「こんにちは」と知らない方に声を掛けられる。知人であれば自然なことであるが、やはり一瞬「え?」と思う。しかしとても嬉しい気持ちになり、心が軽くなる。お店に入った時でもそうだ、「いらっしゃいませ」というたった8文字のこのシンプルな言葉を聞いただけで、とても気分が良くなる。これはとても奥深いことであり、発した人の心情が余すことなく反映される。心を込めた言い方というのは、誰が聞いても嬉しく心地よくなるし、その店全体の雰囲気、客に対する意識がわかってしまうくらいだ。そしてこれは大袈裟かもしれないが、挨拶一つでその店のサービスも味もほぼわかってしまう。あくまで私の経験上ではあるが、今のところ十中八九そうなっているのだから仕方ない。怖くて無愛想な頑固親父が経営している行列の出来る旨い店なんてのもあるが、あれは不器用な大将を陰から女将さんが支えており、それはもう接客に関しては申し分ないくらい行き届いているから成り立っている。確かな味に心地よい接客、それぞれの役割を分担し、メリハリのある手法であるからこそ名店となり、客足が絶えないのだ。

一方「お客様は神様」などという言葉が存在するが、これは愚の骨頂であり、勘違いも甚だしい。その場にいる皆がお互いに敬意を払ってこそ店というのが成り立つ。お客が神様なら、お店の人もやはり神様でなければいけない。こんなことがまかり通るもんなら、そらみたことかマナーの悪い客が後を絶たなくなってしまう。話は少しそれたが、最近挨拶がマニュアル化してしまっているような気がしてならない。これもインターネットの普及による影響なのかもしれないが、面と向かって、もしくは電話で話すことよりも、メールでのやりとりが増えてきたからではなのだろうか?文章の挨拶ではどうしても心が伴わず、素っ気ない感じがする。
本来挨拶というのは、いろんな人間と接していく上で何回も失敗し、挫折して経験を積み重ねて覚えていくもの、苦労して築き上げることで体に染み付き、その人の人格なるものが構成されていくのだ。しかし、昨今ネットで検索すればどの場面でどのような挨拶をするのかすぐわかってしまう、簡単にわかるということは否定しないが攻略法に沿って行われる挨拶には、果たして心がこもっているか・・・。もう一度お店の話に戻るが、あくまでお店の決まり・流れとして発する店員さんの挨拶は、心に何も響かない。声のトーン、よそ見して何かの作業のついでに言われてもむしろ不快に感じる。客が入ってきても何も言わない店は言うに及ばず、やはりこれらの店はサービスも行き届かないし、料理の方も・・・となる。そして負の連鎖は続き、そこにやってくる客の品位も低くなる傾向にある。お金さえ貰えれば、支払いをすればそれでいいという大変残念なお店とお客との相互関係が生まれてしまっている。周りにもお客さんはいるのにお構いなしに大きな声で話す人間、ご遠慮くださいという張り紙があるにも関わらず、電話やパソコンでオンラインの打ち合わせをしている人間、そしてそれらを注意しないのかできないのか見て見ぬふりをする人間。大変居心地が悪く、その日一日が終わってしまったような気分に陥る。
このような事例と、精神病患者世界第一位という今の日本の因果関係が、あるように思えてならない。人の心を救ってくれるのが「挨拶」にあると思っている、いや間違いなくそうだと言い切れる。山登りの時、非常に心身が苦しくなる。そんなときすれ違った方と挨拶を交わすだけでとても元気になる。苦しくなってまた挨拶を交わし、限界のそのまた限界を超えてようやく山頂へ辿り着く。励まし合い、助け合って達成するということを実感し、喜びを噛み締める。日本人には言霊というパワーに敏感な能力を兼ね備えている、今こそ元来のあるべき姿を思い出す時ではないだろうか?

ここで相撲術流挨拶の方法を紹介したいと思う、知人や親しい方にはできるかも知れないが、仕事や初見の方に挨拶するのはなかなか難しい。そこでお薦めするのが、「相手に向かって挨拶をしながら、それが自分に反射して返ってくる」という考え。こうすることで、挨拶を返してもらえなっからどうしようとか、やり方間違っていたらどうしようとかというマイナスな心の作用は消える。一番の身近な存在である「自分」がされて心地よい挨拶をすればよいのである。相手の心情など推しはかろうにも無理がある。途方もないことに心労を費やすよりは、今その場で自分がされて不快にならないベストな挨拶をする。こうすることで、その場の空気にあった挨拶ができる。同じ人間・同じ空間にいてるわけであるから、まず外すことはない。何より自分に挨拶するという行為が、自分を大切にするということに繋がる。自分を大切にすれば、周りを大切に思えるようになってくる。皆がこうなれば、決して心を病むことなどないはずだ。

「情けは人の為ならず」という言葉にも繋がる、「挨拶は人の為ならず」、「鏡の法則」という自分に返ってくる作用を活用してほしい。これが相手のことばかり考えて挨拶をしようとすると、まず緊張する。肩に力が入る、その場の空気を読めなくなる。例えるならば、朝の静寂の中を散歩している人にきちんとした挨拶をしようとする。緊張のあまり、直立不動でまるで軍隊のような挨拶を行う・・・。話は少し大袈裟かもしれないが、きちんとした挨拶をすればいいというわけでなく、その場にあった挨拶が大事ということ。朝の静かな場面であれば、やはりそれらしく声も控えめにするべきだ。そして早朝に動き出すというのは人によってはあまり声をかけられたくないというパターンも無きにしも非ず。なので、目線も弱冠ずらすのもいいだろう。正直これは私の匙加減であるが、朝からでかい声出されて挨拶されてもわざとらしくて不快に思う。さりとて、何も言われないのも寂しい(笑)。そっと控えめに声をかけていただくのが一番嬉しいのでそうしようと思っている、まぁ神様でもないし、必ずしもそれが正解というわけではないが・・・。
※イラスト=上林氏による直筆
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【上林義之】
元力士大岩戸、本名上林義之。OfficeOōiwato(オフィスオオイワト)代表。現AbemaTV相撲解説者。相撲の運動を活かして介護施設や保育園・幼稚園で相撲レクリエーションを行っています。その他、講演活動やヘルスケアイベントでの講師なども。お問い合わせは当ホームページよりご連絡ください。