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「元関取が語る!土俵で学んだ歩き方Vol.10」大相撲と私

 毎回コラムを読んでいただきありがとうございます。最近コアなネタばかりだったので、ここらで一つ柔らかめの内容を提供したいと思う。それは、私と大相撲の最初の接点である。相撲を始めたのが小学4年生の時、10歳である。地元の相撲道場に通うことになるのだが、初めてその門を叩いた時の衝撃は今でも忘れられない。道場に通う人達は市内でも強者ばかり、体格が遥かに大きかった。さらに驚いたのが、指導者の方である。元力士の方が先生としておられ、引退後もアマチュア相撲の第一線で活躍されていたので現役バリバリであった。とにかく規格外なその体格の大きさ、風貌はまるで「熊」みたいであった。

 そして、相撲を始めて最初の夏休み、大相撲巡業一行が地元に来られた。道場に通ってるよしみで、力士とちびっこの相撲に参加できることとなった。当時は平成3年、大横綱千代の富士が貴花田(後の65代横綱貴乃花)に敗れ引退を決意。世代交代がなされ、現代以上の人気を誇っていた。私は本当に自分で恵まれていると思う、相撲を始めて僅か数ヶ月で生のお相撲さんを見ることが出来たのだから。東京や主要都市ならまだしも、片田舎に巡業一行が来られることは滅多にない。たまたま当時の立行司28代木村庄之助親方が地元出身で、そういったご縁で実現できたのである。これは今にして思うと巡り合わせのような気がしてならない。

 貴花田関はその巡業中に19歳になったばかり、後に67代横綱になる武蔵丸関はまだ新十両であった。私の師匠である八角親方(第61代横綱北勝海)や、KONISHIKIさん(元大関小錦)もおられた。ちびっこ相撲の出番がやってくる。胸を出してくださる力士は、現在私と同じABEMA大相撲LIVE解説者の旭道山関、地元山形の酒田市出身の若瀬川関(故人)、そして貴花田関であった。ちびっこ相撲の我々小学生は約30名、どの力士にぶつかるのかは始まってみないとわからなかったが、お相撲さんに胸を借りる、それだけで嬉しくて仕方なかった。

 いよいよ自分の出番が迫ってくる、やがて次の番というところで、土俵上の端で控える。その隣に貴花田関が立っておられ、やさしく話しかけてくださった「お願いしますって言うんだよ」。あこがれの人の声を側で生で聞けるというのは、幸せ以外の何者でもなかった。そしていざ自分の番、胸を出してくださったのは旭道山関であった。言われた通り「お願いします!」と言い、いざぶつかる。たまたまであったが、立ち合いの当たりがよく、あとでビデオを見返すとお客様が当たりの良さに歓声を上げてくださっていた。そのおかげもあってか、華を持たせてくださり、私は旭道山関を押し出して勝たせていただいた。最後の礼もきちんとしなければとそればかり意識する。なぜか会場がざわついている、なんともう一丁とおっしゃって下さり、異例の2番相撲を取ることになる。当時はまだ何も知らなかったが、旭道山関という方は小兵ながら、張り手(ほぼビンタに近い)の使い手で相手をノックアウトするような相撲で名を馳せていた。悔しそうな素振りでやたらと張り手をしようとする仕草を見せる、そしていざ2番目の相撲が始まり、当然張り手はしないでくれたが、最後は思いきりよけられて、目一杯ぶつかろうとしていた私はつんのめって転んだ。2番も相撲をとらせていただき、とても贅沢なことをしたものだ。

 貴重な経験をさせていただいた私はその後も相撲を続けていくことになり、翌年にはわんぱく相撲の全国大会出場を果たす。この大会のすごいところは、力士と同じ国技館で相撲が取れること、そして大会の前日は相撲部屋に泊まれるということである。私のチームが泊まった相撲部屋は江戸川区にあった。玄関に入った時、びんづけ油(力士の頭につける整髪料)の香りが緊張感をより駆り立てた。そして大勢のお相撲さんが、晩御飯のちゃんこの準備をして待っていておられた。全員白のトランクス一丁、大きくて肌の張りが違う。

 いざ晩御飯の時間になり、食卓を囲む。和室の真ん中にちゃんこ鍋、その脇に兄弟子が二人鎮座し、鍋の火加減と周りを凝視している。そこをわれわれ小学生が取り囲むように座り、その後ろにお相撲さんがお給仕してくださる。おいしいちゃんこのはずが、緊張感で静まり返る。我々のお膳にご飯がなくなったら、後ろの力士がよそって下さるのが非常に気の毒、上げ膳据え膳など畏れ多い。勝手にやらせてもらった方が有難いのに、そこは例の鍋奉行兄弟子が目を光らす「おい、鍋入ってねぇじゃねえか!」、周りの弟弟子を叱責する。非常に気まずく、ほぼ皆おかわりもそこそこだったように思う。

 息がつまるような時間も乗り越え、銭湯へ行くことになった。お相撲さんも来ていた。静かに立って給仕にいそしんで下さった皆さんは、こわい兄弟子もいなくなったということでたくさん話してくれた。言葉の訛りなど気にせず、田舎の方言で果たして通じてるのか定かではないが、たくさん喋った。喋るどころではない、神聖な丁髷を触っていたずらもした。でも怒られなかった、本当に優しいお兄ちゃんだったのである。

 時を経て、中学3年の時、いよいよ進路について考える時期に差し掛かるのだが、相撲競技者あるあるとでも言うか、高校進学か大相撲入りかという選択肢に迫られる。秋ぐらいになるとスカウトの電話が掛かってきた。いったいどこで家の電話番号を調べたのだろうか?某有名な相撲部屋の親方が直々に電話をかけてきて恐怖だった、そして急転直下直接家に来るという。行動が早かった、二週間後には家に来られた。そして今度は家の部屋に遊びに来なさいと言われる。悩む暇もない、これがスカウトの極意なのだろう。本場所中に泊まらせていただき、国技館にも大相撲観戦に行かせていただいた。至れり尽くせり、普通なら舞い上がってしまい即入門を決意するところだが、たくさんの優しさが逆に恐かった。

 石橋を叩いて渡る気質なわけで、入門は断らせていただいた。もう一人スカウトで来ている同年代の人もいたが、そちらは入門を即決したらしい。断った理由は先述の慎重な性格、身内の反対、相撲競技を通じてその厳しさを幾分知っていたこと、自分の実力の程をわかっていた、などである。厳しい世界に耐えれる自分ではないし、仮に行くとしても、も少し実力を付けようと相撲部のある高校に進学した。私の高校は、通いか下宿するか選べた。家から遠いし、大相撲に行かなかった歯痒さからなのか、相撲取りの疑似体験をしたかったのか下宿を選ぶ。人生15年目にして家を出た、しかも中学卒業と同時に新しい家に引っ越したタイミングでである。なので今の実家はあまり住んだことがない。

 下宿3日目にホームシックにかかった、急に寂しくなり涙が出てくるのだ。それまでも、合宿など経験しているのに、期間限定の寝泊まりとはわけがちがっていたのだ。大袈裟かもしれないが、もう帰ることが出来ないというか、自分の都合で家に帰れないということがそうさせたのかも知れない。寮などとは違い、寮母さんみたいな人はいない。普通の一軒家に寝泊まりするので、全部自分達で生活の全てをこなさなければいけない。これは本当に後々のためのいい経験になった。一番は、親の有り難みを身に沁みてわかったこと。本当の意味での感謝という気持ちがこの時わかった、相撲取りになるための予行演習のような生活、私はまだその気にはならなかったが、世がそう思わせてくれなかった。(次回へ続く)

※イラスト=大岩戸関による直筆

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【大岩戸 義之】
元力士大岩戸。OfficeOōiwato(オフィスオオイワト)代表。現AbemaTV相撲解説者。相撲の運動を活かして介護施設や保育園・幼稚園で相撲レクリエーションを行っています。その他、講演活動やヘルスケアイベントでの講師なども。お問い合わせは当ホームページよりご連絡ください。

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