
前回書かせていただいた「大相撲と私」の続編をお届けする。中卒での大相撲入りは断念し、高校へ進学して相撲部での稽古に励んだ。そんな折、高校も一年生の終わりに差し掛かる2月に八角親方(第61代横綱北勝海、現八角理事長)が、地元に講演に来られ、見に行った。
元横綱がやってくる、会場には沢山のお客様が詰めかけておられた。最前列に陣取り講演を聞いたが、気のせいなのか親方はしきりにこちらを見ていた。講演も終わったところで、親方の控え室に呼び出された。私と学年1つ下の子が呼ばれたのだが、この二人はいつもセットで何かと比較された。ただし向こうは全国チャンピオン、比べるまでもない。こちらはいつも蚊帳の外だったので、また例に漏れずそうなるのだろうと半ばふてくされていた。そしていよいよご対面、親方は優しそうに笑っていた。何を話されていたかは覚えていないが、一緒に入ったチャンピオンの子には、褒めるようなことは言わず、私にはやたら褒めちぎる。それまで世間様で認められたことのなかった私が、素質があるなどと言われたら、嫌なわけがない。そのとき一気に心が奪われてしまった。これには後日談があり、どうせ全国チャンピオンは引き手数多でスカウトの争奪戦になるから、最初からそちらは捨てて、むしろ実績のない子を褒めちぎれば心を鷲掴みにできるという「作戦」であったらしい・・・。

すっかりその気になってしまった私は、高校2年の夏に八角部屋の合宿に参加することになる。場所は親方の生まれ故郷北海道は広尾町、飛行機乗って電車に乗って帯広駅まで向かった。そこに親方が車で迎えに来てくださって、さらに数時間の移動。本州とは違う北海道の広大な土地、ほとんど信号もない高速道みたいな一般道を猛スピードで走る。この時生まれて初めてベンツに乗ったが、スピードメーターに驚いた。普通の車は180キロまでだが、260キロまで表示されている。あっという間に、宿舎へ到着した。大部屋へ入って部屋の力士の皆さんへ挨拶する、緊張したが雰囲気はとても和やかであった。笑いが絶えず、気持ちもすぐに打ち解けた。とはいえ、翌日からは稽古なので相撲部屋の規則正しい生活である消灯22:00には、長い移動の疲れも相まってすぐに眠りについた。翌日は6:00起き、夏なのに寒かった。体育館でストレッチ体操を行い、そのあと外でウォーキング。これが結構長く、往復2キロを歩く。そして屋外の土俵で稽古が始まる、自分は序二段の人と稽古をした。初めは自分の力がどのくらい通用するのか不安であったが、そこそこ相撲は取らせてもらった。しかし、上には上がいる。次の位の三段目の力士は当たりの強さ、スピードが段違いで全く歯が立たなかった。
結局一週間ほどお世話になったが、私はあまりの居心地の良さに、すぐに高校を中退して入門しようと思った。担任の先生に相談したら猛反対され、「学業を中途半端にやめて、大相撲で続くわけがない」とトドメを刺され、結局高校は最後まで通った。で、卒業してから入門かと思ったが、大相撲への夢はすっかり冷め、むしろ大学に憧れを抱くようになり、近畿大学へ進学する。この大学も大相撲とは縁が深く、3月に大阪で行われる春場所の折には、若松部屋(今の高砂部屋)が、大学に宿舎を構え、稽古は相撲部の道場で学生と力士が一緒に稽古を行なっていた。入学間近の3月末に大学へ行ったが、稽古場は学生と力士で活気に満ち溢れていた。その中にのちの第68代横綱朝青龍関もおられたが、まだ幕下であった。1年後の大学1年の終わりに再び若松部屋一行がやってくる、朝青龍関はあっという間に幕内に駆け上がり、部屋頭になっていた。
いよいよ本格的な力士との稽古が始まったが、八角部屋の合宿とはまるで雰囲気が違い、場所前の力士は殺気立っていた。特に学生には負けたくないのでいつも以上に力を出してきて、怪我するものも多かった。私はその頃幕下におられた朝赤龍関(現高砂親方)とよく稽古させていただいたが、全く歯が立たなかった。しかし、稽古させてもらえるだけでありがたく、充実していた。結局若松部屋は後に高砂部屋本家と合併し、宿舎が別のところになったので、合同で稽古するのはこの時までとなってしまった。内心残念なようでしかし大相撲の荒稽古から解放されてほっとした。

しかし、そうは問屋がおろさない。お相撲さんが大阪へ乗り込んでくる3月の時期はまさに出稽古のシーズンで、大学の監督の計らいでいろんな部屋へ連れて行ったもらったというより連れて行かされた。大相撲の世界に興味があるということを前もって伝えていたこともあって、出稽古のメンバーにはいつも私が入っていた。当時は嫌でたまらなかったが、今思えば本当にありがたい貴重な経験であった。直にぶつかり合うことで、力士がどのくらい強いのかわかることができたし、自分の実力がまだまだなのだと向上心へ結びつけることができた。3月だけではない、当時の安治川部屋(現伊勢ヶ濱部屋)は6月に大阪で合宿を張り、そのまま7月の名古屋場所へ乗り込む。部屋の力士でさえ地獄の合宿と称するその猛稽古に参加させてもらった、8月になれば我が近畿大学も監督の故郷である青森で合宿をするが、そこにも別で合宿を張っている安治川部屋の一行が出稽古にやってきてくれた。その中には後の第70代横綱日馬富士関(当時の四股名は安馬)もいた。オフで地元山形に帰れば、なんと今度は縁あって八角部屋がそこで合宿を始めていた。
どれだけ大相撲が身近に存在するのだろう、もはや日常生活の一部になってしまっていた。そんなこんなで時が経ち、4年生となったところでいよいよ卒業後の進路を考える時期がきた。ここにもやはり大相撲の世界という選択肢が出てくる。スカウトもきた、悩む。なぜなら、教員の道も少し憧れていたからである。しかしこれは卒業した高校へ教育実習に行ったときに、自分には到底無理だと悟った。とりあえず教員免許だけは取得したが、大相撲の世界へ進むことはほぼ確定した。あえて口には出していなかったが、そういう雰囲気を醸し出していたのだろうか?いろんな方に「どこの部屋に入るの?」と聞かれた。これは就職以上に悩むことであり、なぜなら一度その部屋に入門したら移籍はできないからだ。たとえ、自分と肌が合わない部屋でもずっとそこで頑張っていかなくてはいけないのだ。今でこそ情報が溢れんばかりになっているが、当時はまだまだ。特に閉鎖的である大相撲の社会というものは謎に満ち溢れてい、外部から計り知ることは出来なかった。
散々悩んだ相撲部屋選びであるが、かつて合宿にも参加し、その部屋の空気もなんとなくわかっていた八角部屋に入門することに決めた。こう自分の人生を振り返ってみると、大相撲とのご縁は運命であったように思う。かつては相撲が純粋に好きな人だけが見ていた世界に、若貴兄弟というアイドル的存在が彗星の如く現れ、一気に女性ファンを取り込み、マスコミを賑わせた。そんなさなかに相撲を始め、すぐに生のお相撲さんと触れ合えたことで、自分の人生は決まっていたのかもしれない。
その後の大相撲人生についてはここでは触れないが、しかし初めは嫌でたまらなかった相撲が、引退して尚それを相撲事業として自分の職業とさせていただいてることには、感謝としか言いようがない。好きなことを仕事にする、まさに天職である。
※イラスト=大岩戸関による直筆
---------------------------
【大岩戸 義之】
元力士大岩戸。OfficeOōiwato(オフィスオオイワト)代表。現AbemaTV相撲解説者。相撲の運動を活かして介護施設や保育園・幼稚園で相撲レクリエーションを行っています。その他、講演活動やヘルスケアイベントでの講師なども。お問い合わせは当ホームページよりご連絡ください。









